宿泊した2003年当時は、カップル向けのデザイナーズ旅館の黎明期。
「月のうさぎ」はその象徴的な存在で、「予約のとれない宿」ナンバーワンでした。
私たちも雑誌で、青い空と海に浮かぶような360度オープンの露天風呂の写真を見ては胸をときめかせ、二泊三日で二人で20万円いっちゃう恐怖を乗り越えて、予約をとったのです…その後に起こることなど、予想もせずに。
私たち夫婦は本当にどっちに原因があるのか、宿泊当日はだいたい雨…よくてどんよりした曇りが多いのですが、その時も例にもれず、宿に着くとどしゃぶりの雨でした。
さらに味のある古民家風のつくりが災いして、部屋の中は、まるでふたりの気持ちのように真っ暗。
でも私たちは、早い段階から天気予報でこの事態を予想していました。だからお互いに
「部屋は広いよね」
「お風呂がほんとにワイルドだよね」
とはしゃいで、気を引き立てあっていたのです。
しかしそんながんばりを台無しにしてしまったのが、案内の若いやる気いっぱいの、純朴そうなお兄さんでした。
彼は、ベストの状態でないことに目も合わせられないほど恐縮して、涙目で同じ言葉を繰り返します。
「天気がいいと、このベッドに横になったまま、こう…海が見えて」
「天気さえよければ、海に伊豆七島が見えるはずだったのに…」
「天気がよければ…」
「天気がよければ…」
私はこの青年の熱いホスピタリティー魂に心を打たれ、感動すらおぼえました。しかしこのとき、ダンナの怒りメーターはひそかにどんどん上昇していたのです。
どこを案内しても「天気がよければ、ここが素晴らしくて」「天気がよければそこからも海が」と続く「こんなはずでは」攻撃に、
「現実に天気が悪いんだからどうにもならないじゃないか! どうにもならないことをくどくど言うな!」
とダンナは激怒(彼が帰った後で)。
こうなったらもう何を見てもむかつく、「根に持つタイプ」なのでお手上げな私…
そして食事の時の給仕のおじいさんは、さすがにベテランだけあって老獪でした。そんな言ってもどうにもならないことは言って、ダンナを苦しめることはしませんでしたが、もっとすごい、いや始末に悪いワザを隠し持っていたのです…それは「ポエム攻撃」。
「ご主人、雨もまたよいではございませんか。この竹の笹が雨に濡れる様子はなんともいえない風情がございます」
と一転して、雨礼賛。滔滔と雨のすばらしさを饒舌に語り続ける作戦に出たのです。
その泉のように湧き出るポエマーなボキャブラリーの豊かさには、ライターである妻も感服。こっそりメモして何かに役立てたいと思ったほどです。
しかし残念なことに、詩人の魂が蟻の脳味噌くらいもないダンナ。
さっきの「天気がよければ」攻撃でいいかげんささくれだっていた心が、さらにおろしがねで摺られたようにざらついてしまったよう。怒りでひくひくしている気配が、びんびんと伝わってきます。
そんなことには気づかず、どこまでもなめらかに続くおじいさんのポエム…
もういいよ、私たちあきらめてるんだから、お願い、そっとしといてーーー。
その「雨の呪い」は次の日、宿が推薦してくれたおそば屋さんまで続くのです(以下略)。
|